和田昌俊

2022.08.04

映画日記『ヴィジット』2015年

映画が大好きな和田昌俊です。映画を観た後はできるだけ映画日記を書くようにしています

 

今日は最近観た映画の中から下記の作品について書きます

 

映画を観た後に書いているため、未視聴の方はご注意ください

 

映画『ヴィジット』2015

 

一流の映画監督が作る素人風ドキュメンタリー映画で、ホラー映画なのに感動してウルウルできる稀有な作品

 

姉の撮影するドキュメンタリー映画を通して、なにかがおかしいと観客に気づかせる映画です(この違和感がだんだんクセになっていきます)

 

月曜日の晩におばあちゃんが廊下で吐いているのを胃腸炎だと説明するおじいちゃん

 

実はこのとき、顔の半分が影になっていて見えないようになっています

 

つまりなにか隠しているという表現(それでいて光が当たっている顔の半分では姉に向かってウィンクしているという芸の細かさ)

 

母親が駅のホームで、電車に乗っている姉弟を見送るシーンも芸が細かい

 

ゆっくり動き出しているときは笑顔で走っているのですが、電車がだんだんと加速するにつれて笑顔が泣き顔に変わっていきます

 

Skypeで姉弟と会話する時もわざと「大嫌いよ」と言ったり、様子を気にしつつも「言わないでいい」と結果を知りたくない様子から、本心では心配で心配で仕方ない様子が映されます

 

この映画の映像を撮っている(設定の)姉に対して13(設定)の弟がすこしおちゃらけキャラで時々自作のラップを挟むのが清涼剤になっています

 

この怖いシーンを引き立たせるためにほのぼのとしたシーンを入れるあたりが脚本の妙味を感じます(甘いものと塩っぱいものを交互に食べる感じ)

 

個人的にはこの弟の発案した「なにかを罵るときに女性歌手を名前を言う」というアイディアには笑ってしまいました

 

足をぶつけたら「おお!シャキーラ!」(本来ならここでファ◯◯!と英語らしい言葉が出るところを女性歌手にしている。つまり女性蔑視の考え方がクールだと思っているということ)

 

昨今のポリコレ事情では到底袋叩きにあうようなキャラクターですが、根底にあるのは思春期特有の女性への憧れ(13歳の男の子なので女の子のメール友達に1週間連絡できないのがすごくつらい)ということを間接的に表現している部分なんですね(好きな女の子にイジワルしちゃう男の子みたいな心理)

 

この辺のキャラクター描写があるおかげですごく人間味のある姉と弟というキャラクターになっています(毎回弟に「バッカじゃない」と姉が突っ込んでくれます)

 

なお、弟が「ケイティ・ペリー」と言うシーンがあるのですが、ちゃんと伏線回収になっていて面白いです(めっちゃ緊張感あるシーンなのにちょっと笑えるという不思議な感覚が味わえます)

 

もう一つ、キャラクターに人間味を与える要素になっているのが二人の精神安定方法です

 

冒頭の母親のインタビューシーン(娘に向かって話しているシーン)で離婚(父親が浮気)していることがわかります

 

父親が家を出て行ってしまってから、弟の方は潔癖症になってしまいました(潔癖症になることで精神を安定させている)

 

一方で姉の方はこの映画そのもの(ドキュメンタリー撮影)が精神安定方法のように思われます。意見が分かれるところかと思いますが、鏡ではなく映像を撮るという行為だと思うんです(弟の精神安定方法である潔癖症の説明時に姉の顔にフォーカスされることから、つまりこの姉にとって撮影という行為が精神安定方法だと観客に分かるようになっています。弟の潔癖症について説明するだけならわざわざ姉の顔をアップにしてフォーカスする必要はなく、ただ弟の入ったトイレを映せばいいだけのはず)

 

実は姉は鏡を見ることができないのですが、それをセーターで表現しているのが上手い(初見で何人の人がこれに気付けたでしょうか。弟に言われるまで僕は気がつかなかったです)

 

姉は映像に映った自分は見れるのですが、鏡で見ることはできません

 

父親が出て行ってしまってから鏡を見れなくなったことがわかります

 

自分に非がある気がするんでしょう(同じような気持ちを弟も思っていることがわかります。ラグビーの話の部分)

 

同じ女性であるという理由から母親と自分を重ねてしまう姉は母親(と自分を治す)万能薬を求めてカメラを回し続けます

 

つまりこの万能薬に対するこだわりが映画の撮影行為であって、弟の潔癖症(清潔へのこだわり)と対になっていると僕は思います(姉の万能薬は治療であって、弟の潔癖はバイ菌の排除。どちらも健康な過去への回帰。もちろん健康な過去とは父親が出ていく前の母親の精神が安定していたころのこと。母親の精神状態が子供に与える影響はとても大きい)

 

鏡に写る自分は記録として残せない(編集によってハッピーエンドにできない)ため直視することができず、なんとか万能薬(これがなんのことかは映画を観ればわかる)を手に入れてハッピーエンドに変えたい、その思いが映画撮影という手法になっているんです

 

このような一見すると見落としてしまいがちな芸の細かい作り方をシャラマン監督は随所に散りばめています

 

憎い演出なのはそれを素人風のドキュメンタリー映像に散りばめているところ(素人の手作り風に見せかけて一流のシェフが料理しているような)

 

退屈そうなドキュメンタリー(当事者には面白いかもしれないけれど、他人は興味がないであろうホームムービー)にしながら一流のホラー映画に仕上げているのです

 

祖母の「チキンポットパイを作るわ」のセリフの後の、立ち去っていく後ろ姿で異常性を表現しているところはアリ・アスター監督と共通しているように思います(アスター監督のほうはもっとあけっぴろげでわかりやすいですが、シャラマン監督は半分だけ見せています。まあこのあとであけっぴろげになるんですが。やっぱりアリ・アスター監督とシャラマン監督は感性が似てる気がする)

 

この映画が名作だと思うのはただのホラー映画じゃなくて感動作にしているところ(まさかホラー映画を観て最後に感動してウルウルするとは思わなかった)

 

ホラー映画は数多くあるけれど、最後にウルウルさせることができる作品はなかなかない

 

最初と最後が同じようなインタビューシーンなわけだけど、映画を観る前と観た後とではガラッと印象が変わります(なお、このとき姉の服が青になっているのも象徴的。聖母マリアを意識しているように思う。キーワードが「許す」という部分からもそれを匂わせていますね)

 

そして、感動させてからの弟のラップで少し笑わせてくれる(姉が部屋の奥でメイクしているのが上手い演出。いかにもプライベートフィルムって感じで。そしてこの時は少し振り返ってリズムをとってくれる優しい姉)

 

からのエンドロールで寒々とした郊外の家を映しつつ終わっていく

 

このラスト5分間の詰め込み方がすごい

 

前半のゆっくりしたテンポが嘘のような無駄を省いた(それでいて絶妙な間を入れつつ)スッキリまとまった中にいろんな感情をぶつけてくる

 

『シックス・センス』もそうだったけど、ラストが驚愕で二回目の干渉が楽しい映画(一粒で二度美味しいみたいなお得な映画)なのです

 

この映画で僕が演じたいと思った役は「医師のサム役」です。役者をしていた医者(医者が役者になったのではなくて、役者が医者になったというのがポイント)という役柄に挑戦してみたいと思いました(もしくは胸毛コンテストに出場してオイル塗りたくられたミゲル役かな、僕は胸毛ないけど)

 

ここまで読んでくれてありがとうございます

 

なお、映画について興味があったり、感想をだれかと共有したいときはお気軽に僕にお声がけください

 

ご意見・ご感想・応援・お仕事の依頼などは下記の連絡先までどうぞ

105-0021 東京都港区東新橋2-18-2 グラディード汐留2F AVILLA STAGE  和田昌俊 宛て』

オーディションのお申込みはこちら